わたくしの考えるカルト。

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Photo by Fox Photos/Getty Images

とある年上の友人(とわたしは思っているとても尊敬する方)から、小山田圭吾のファンや近しい人々が、小山田の知的障害をもつ同級生に対する暴行を自白する記事が載った雑誌と、それを作った編集者たちを糾弾する動きが活発になっている、という話を聞いた。くわしくはこちらのツイート、そしてツイートの先にあるブログを読んでほしい。

わたしもジャーナリズムの鉄則として原典にあたるためこのブログを読んでしまったが、記事を要約すると、書き手の意図はどうあれ、あろうことか小山田圭吾を「やさしいところもある」などと擁護しながら、過熱気味の批判に応える形で、事の発端のひとつとなったQuick Japanでのインタヴュー記事の問題点を、小山田や当時の編集者、ライターの気持ちを推測しながら、かなり恣意的に指摘していくという、なんだかよくわからない内容であった。そんな内容なのに、記事内では呪文のように「小山田圭吾は加害者です」とか「小山田圭吾が悪くないと言っているわけではない」と繰り返し言っている。

さらにブログ内で、筆者はQuick Japanの記事を再読した上で「この記事から読み取れる小山田さんの(悪ぶっていても)隠しきれない優しい側面については、私は全力で擁護」すると宣言しているが、記事から読み取れるらしい優しさというのは、小山田圭吾にとっていじめ(暴行)が日常というか人に優しくすることと両立する価値だった、という証左にしかなっていないと思う。

上記ツイートの発信者も、ブログを書いた人も、なんだか問題意識をもってやっているようですが、実際はかなりずれた問題提起であり、彼らのやっていることは、小山田のやってきた凶行から目を逸らし、現況を呼んだ理由を加害者以外に求める活動であって、行き着く先は「小山田圭吾は悪くない、悪いのはそれを面白おかしく伝えたメディア」という結論である。そもそも、小山田圭吾を擁護してメディア批判に矛先を向けている人たちのなかには、糾弾するふりをしながらも「小山田のしたことは犯罪で、決して許されることではない。身障者やいじめ被害者に対して贖罪してほしい」ということを明確に表明する人がほとんどいないようである。この問題を語るにあたってはそこがスタートだと思うのだけれど。
年上の友人はこのやりとりについて「小山田信者における内ゲバがはじまった」と言った。的を射ていると思う。(ここでいう「小山田信者」はかなり広義である。共通するのは積極的にも無自覚にも、小山田圭吾を擁護する人々で、そのなかには小山田圭吾の暴行の事実を差し置いて同情するものや、彼が過去の行いを有耶無耶にしていたおかげで作ることができた音楽を愛するファンたち、あるいはそもそも暴行の事実を信用していない頭のおかしい人に加え、上記ブログ筆者やツイート主のような、小山田に取材対象として接し、人となりを理解している気になっている人物なども含まれている。)

このような論点ずらしは、日本では特にめずらしいことではなく、むしろ日常的に起こっている。日本語話者が抱える国民病のようなもので、それは批判する人が批判を受けている人の立場に立って批判する、批判にさらされている人の心情を推し量って批判してしまうことが要因のひとつであると思う。今回はそういった病理に加えて、ミュージシャンとファン、あるいはミュージシャンと取材対象、という実際は対等であるはずの関係性に、どちらか一方が擬似的な上下関係をつけ、他方はそれに従い「下のものは上のものが利するように考え、発言しなければならない」という無自覚の同意を形成しているからこそ、なんだか小山田圭吾とその擁護者たちが、ある種の宗教じみた組織を作り上げているように見える。

ここで再び年上の友人のコメントだが、彼はこの状況について「彼ら(小山田圭吾の擁護者)は、事件後も麻原彰晃を信じ続けているアレフ信者を思わせ」ると、これまた大変腑に落ちる言葉を述べていた。奇しくも、オウムtoアレフの事件も小山田の人気が確固たるものとなった90年代を代表する社会問題であり、特にフリッパーズ・ギターやコーネリアスと共に多感な中高学生時代を過ごした世代の振る舞いと、日本の歴史に深い影を落とすこのカルト宗教にも、なにかしらの因果関係があるのかもしれない。

とはいえ、元を正すとやはり人間に絶対性を持たせた大日本帝国における天皇制を、戦後、完全に否定せずにここまで来てしまった、日本の歴史における最重要とも言える問題が関係しているように思われる。確信犯的な問題の先送りによって、神のような絶対性を人間に載せてもよい、という考え方がいまだに生き延び、国民的な共通認識として禁忌に扱われずにいることで、第二次大戦の社会的記憶が十分に薄れてしまった現代、もっというなら90年代以降において、カルト宗教じみた関係性が、いたるところに発生する社会になっているのだろう。特に、なぜか日本の芸能界では、それがよく起きている体感がある。人気歌手や芸人と、その盲目的なファンたちの姿をソーシャルメディアなどで日常的に目撃し、辟易している人は少なくないだろう。
さらにいうと、ここで扱った小山田カルトな人々は、その逆側にいるはずの、小山田圭吾に対して過剰な中傷に走る人々の心理と通底しているようにもみえる。どちらもカルトで、自分で考えない人たちで構成されている点においてはかなり似ているのではないか。やはり日本に巣食う病気である。

(あるいは、全く別方向から考えると、上記ツイート主やブログ執筆者が身をおく音楽(カルチャー)メディアはほぼ「ミュージシャン万歳!ミュージシャンの言うことは絶対!」をベースにしている芸能広報誌にすぎないが、小山田圭吾の一件で、その方針自体が間違いだとわかり、それに伴い、いままでメディア編集に献身してきた(それしかしてこなかった)人間としての自己が社会的に否定されている気分が彼らはしているので、それを守るために必死なんじゃないか、という気もする。自分がやってきたことは間違いじゃなかった、と現実を見ずして思いたい気分というか。)

又聞きではあるが、小山田圭吾が暴行を自白している記事(ここではロッキンオンJAPANのほう)を読んだとある精神科医によると、彼にはサディスティックパーソナリティ障害の疑いがあるそうだ。米国やフランスでは、加害者にカウンセリングを行うのが一般的だという。日本もいじめ(暴行)被害者ではなく加害者に対する医療処置が速やかに行われる社会にしていかなければいけないと思う。

ちなみにわたしはというと、かなり前から、少なくとも8年くらい前には、小山田が加害者であったことは知っていた。しかし知ったあとで、被害者の壮絶な経験や「これは知的障害者に尋常ではない暴行や精神的苦痛を味わわせた男が作った音楽である」という事実を思い起こさぬため、「音楽と人間性は関係ない」という、ありきたりなわりに真偽が怪しい言葉を何も考えずに盲信して、彼の曲を聴いていた時期もあった。恥ずかしいことだと思う。

そんなわたしでも、今後は彼が被害者と対話し、そのほかの障害者やいじめ被害者に対する支援をはじめ、それを知らせる動きを見せるまでは、彼の曲は聴くことはないだろう。手のひら返し、と言われても構わない。ここで返さないと人間として生きられないから。たとえどんなに才能がある人間であっても、最低限、人間として"善く"生きようとする者であるべきで、善く生きるとは、犯した過ちを放置し続けることではない(小山田は記事掲載後、二十数年にわたって暴行を悔いる補償の行動を自発的にはほとんど見せていないので、ここで問題になるまで、本人にとっては日常の延長、取るに足らないことだと思っていたのだろう。もし違うというのであれば、外野や信者がどうこうではなく、やはり本人のこれからの行動で証明していくしかない。)。

小山田圭吾や小林賢太郎の五輪開閉会式クリエイティヴチームにおける辞任解任は「才能があれば人間性は不問」という、そんな日本独自の思考の終着点のように見える。小林賢太郎のほうは、日本の近現代歴史教育の問題の方が大きそうですが、それはまた別の話。

ともあれ、いまわたしにできることは、上に書いてきたようなことをわたしは考えていると、不特定多数の日本語話者に、広く知らせることくらいだなと思い至り、いまあなたはそれを読み終えているのです。

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